ベギナージュ始まり
度重なる心労のため、徐々に結核に蝕まれ、1889年6月7日、マリ・テレー

ズは神の平和と信頼のうちに55歳の生涯を閉じました。死に先立って妹マリ・

ザビエに、「私が死ねば一年もたたないうちに援助マリア会は完全に変わるで

しょう」と言い残した通り、以前マリ・テレーズの忠実な協力者であったマリ

・エリザベトによって、援助マリア会は再び息を吹き返しました

ところが、創立者の支えとなるべき有能な副院長は実は大きな野心家であ

り、次々と事業を拡張して会を急速な発展へと導きました。しかし、その

反面経済的な破滅の状態に陥ったのです。

それらの責任はすべてマリー・テレーズに押し付けられ、人々から非難さ

れ、打ち捨てられました。厳しい試練を通してキリストに従うよう神に導

かれた彼女は、1874年、ついに修道会から追放されました。


彼女は言っています。


「こうして神だけが私に残されました。ただ神だけがやさしく、いつくし

み深くしてくださり、心も体も苦難の大海にすっかり沈められていたこの

私を慰めてくださったのです。」

私たちは、特徴として、あらゆる要求に応じ、あらゆるとき、あらゆる場所に適合し、

他の人々のできないことを引き受け、教会の承認があるならば、どんな事業、どん

な手段も、あらかじめ排除してはならない。」また「私たちは主に奉仕する人々の末

席を汚しているものであると自覚し、もっと華やかで高尚な事業によって、神に光

栄を与える人が残したものを、自分の分け前として与えられるのを当然のことと思

わなければならない。

この質素な精神『聖なる小ささ』こそは、私たち独自の精神でなければならず、神

の摂理が与えてくださる事業は、何一つ、平凡すぎるという理由で軽蔑してはな

らない。」という目標のもとに、援助マリア会は、地道に着実に発展してゆきました。

社会の変動を敏感に察知するマリー・テレーズは、当時産業革命による産業界の躍

進と、それに伴う種々の社会問題にいち早く目を留めました。

農村から都市へと流動した若年労働者のために「家族の家」と呼ばれる寮を開設し

、様々な危険から守るとともに、家族愛に満ちた住居と女子としての教養・また信仰

教育を与えていきました。「家族の家」はフランスの各地に設けられ、時代の要請に

大いに応えるものとなりました。
この出来事は、いろいろな面で修道会の新しい出発となりました。火事が起こ

ったときすぐ、聖櫃を安全な場所に移し、ご聖体の前で夜を徹して祈ったその

経験は、援助マリア会の「聖体」への召し出しの招きになりました。

 ついに1854年、マリ・テレーズが20歳のとき、カステルノーダリーにべギ

ナージュを創立しました。ほどなく、幾人かの若い女性が参加し、活動が始まり

ました。彼女たちの日課は、祈りと院内の仕事、そして社会の要請に応
て開い

た孤児院の子どもたちの世話をすることでした。
 やがてマリ・テレーズは主の招きを聞きます。心の傾きとしては、世間から離れ、静

かな隠れた生活の中で、主と共に生きる観想会「カルメル会」心を惹かれていました

が、叔父の勧めによって、世間の只中で人びとの必要に奉仕するベギナージュを始

めることを悩みながらも決心しました。それが神のみ旨であることをはっきりと悟っ

たからです。


後に回顧してこのころが生涯のうちで、一番苦しい年であったと断言しています。
 16歳の時、叔父スビラン神父の指導するマリア会の活動の中で、使徒職の美し

さを悟りました。

 マリ・テレーズは言っています。


 「私は使徒的働きの美しさをはっきりと悟りました。まったく神的なこの仕事

は、自分が何かを得ようとするのではなく、神にすべてを帰そうとする配慮を

持って、絶えず懸命に努力することが要求されるのを理解したのです。私は神

の栄光のために、自己を犠牲にしたいという熱望に駆られました。」
 援助マリア会の創立者マリ・テレーズは、1834年南仏カテルノーダリー(トゥルーズと

カルカッソンの中間に位置する)
の古い貴族の家庭に生まれました。

両親と叔母、また家庭教師として司祭の叔父から、いくらか厳格な躾や教育と

ともに、堅固な信仰を受け継ぎました。

 12歳になり、彼女が始めての黙想会に参加したとき、神は慈しみのうちに彼女

の心に深く触れはじめてくださいました。神は言い尽くし得ない優しさをもって

彼女の心を完全に占領なさったのです。
すべてを剥奪されたマリ・テレーズはなおも修道生活を続けるため、自分を受

け入れてくれる修道会を探し求めました。しかし、創立者であったということ

、会から追い出されたということが災いして、なかなか門は開かれません。

路頭に放り出された彼女を、ついに受け入れてくれたのは、愛徳の聖母修道会

でした。ここで志願期から始めて修練者となり、深い謙遜と忠実のうちに

1877年に誓願を立てて、正式に愛徳の聖母修道会の修道者になりました。

ここでは人生の転落を経験し、心に傷を受けている少女たちの生徒監督の助手

として、ついで修道院の受付の補佐として働きました。

マリ・テレーズにとって愛徳の聖母修道会における15年間は、愛する援助マリア会の

ために、自らを無とし、キリストとともに死に、キリストとともに復活することでした。

 
もし一粒の麦が死ななければ・・・・

さらに、聖母マリアへの感謝としてマリアをこの小さな会の長上として仰ぐこと、ま

た『私は主のはした女です』と応えられた「マリアの生き方」を会の生き方とするこ

とにしました。

創立者マリ・テレーズの生涯

そして、この時から、マリー・テレーズと会員の間では、中途半端なベギナージュの

生活ではなく、より深い修道生活への渇望が高まってきたので、マリー・テレーズは

30日の霊操を行って選定し、援助マリア会を真の使徒的修道会として位置づけまし

た。使徒的働きの基としては「イグナチオの会則」を選びました。

1881年には妹マリ・ザビエも援助マリア会から追放され、愛徳の聖母修道会に受け

入れられました。そこで、援助マリア会の状態をつぶさに聞き、愛する会が崩壊寸前

なのを知って、新たな苦悩に陥ります。

しかし、彼女は、「神の愛と全能は神を愛する人たちのために、死から生命を引き出

すこともお出来になる」と信頼するのでした。

愛徳の聖母修道会

会則を綴るマリ・テレーズ

カステルノダリの運河   福者はベギナージュ
創立のために、ここからベルギーへ旅立った。

この列福式は日本創立のきっかけとなりました。
1891年、十字架賞賛の祝日に、マリ・テレーズの遺体は援助マリア会に返さ

れ、ヴィルパントの墓地に埋葬されました。


そして死後57年後の1946年10月20日に教皇ピオ12世によって列福され、

福者と宣言されました。
しかし、7年後の1861年11月6日、恐ろしい火事が、新築されたばかりの建物を嘗め尽

くし、26人のベギナーと大勢の子どもたちが、危うく炎に巻き込まれるところでし

た。マリ・テレーズとベギナーたちは聖母により頼み、建物が焼け落ちる寸前に全員

が奇跡的に救出されました。