召命:人間の目的は??
  私の保護の聖人聖パウロのフィリピンの信徒への手紙3章にあるように“私にとって有利であったこれらのことをキリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知るあまりのすばらしさに・・・”のことばのように、最後まで忠実に奉献生活を日々歩んでゆけますように…願いながら。

S.M.知子 吉岡

 例えば、6月29日は昔、聖パウロと聖ペトロの祝日でした。私はこの日、母の胎から出て、この世で生きる者となりました。

 中学2年生の頃、私は人生についての疑問を抱き始め、人間は何のために生まれたのだろうか。この世でつつましく生きた人も、悪を行い人に迷惑をかけた人も、裕福な生活を送った人も、貧しい生活を余儀なくされた人も、みんな同じように死んでゆきます。死は人の終わりなのだろうか? その向こうに何もないのだろうか?もし、何もないとしたら、適当に好きなように楽に生活してゆけばよい・・。しかし、このような生き方に於いて心を満たす事も、幸せも安心も得られないのはなぜなのだろうか?

 高校への進学に際して、中3の3学期のはじめに、ある一つの体験から、私はこれからの社会には語学力が必要だと…考えるようになりました。公立学校の入学願書を取り下げ、学校案内に出ていた外国人から英語を学ぶことができる・・・という理由一つで私立学校に方向転換いたしました。勿論、両親・担任・学校側は反対でした。

 私はこの時点で目指す私立学校がミッションスクールであることなど全く知りませんでした。ただ外国の人が英語を教えてくれるということ以外あまり興味を持たなかったのでした。

 入学し、学校の授業に、宗教という科目があり、この授業を通して、カトリック教会との出会いが始まり、中学校時代の疑問に対してある程度の答えを見つける事が出来ました。そして高校2年の終わりの聖土曜日にマリア・ポーラという名前で受洗いたしましました。

 この名前は、私の誕生日が6月29日で、当時聖パウロの祝日であったため、洗礼名を忘れないための手立てとして名前を選び、私は聖パウロに倣い、彼のように生きたい・・・と信仰の喜びのなかで、人間が生まれた意味と目的を日々の生活のなかで探し、深め、新しい歩みを始める事が出来るようになりました。

 そして教会活動、JOCF活動(カトリック青年労働者連盟女子部)、聖書研究・・に参加していくうちに、いつしか自分を置き、この喜びを他の人に伝えていく奉仕宣教者としての道に喜びを感じはじめ、この道を歩みたいと思うようになってきました。さらに、日々体験する出来事を通して不思議な計らいの歩みの中で、援助マリア会を知り、入会の恵みをいただきました。勿論、洗礼の時も、修道生活という道を歩みたいという望みを両親に表明した時も、いずれも反対されました。家を継ぐ者として、先祖から伝えられた家の宗教を守る義務、家系を継続してゆく義務が私にはありました。

 しかし、子供の幸せを求め、願う両親の気持ちから受洗に際しても、修道生活への道を選ぶことに於いても、時間はかかりましたがゆるしをいただくことができました。やがて、父と母の受洗の時期は異なりましたが、両親ともに同じ信仰の恵みをいただくことができました。

 そして両親は、この修道生活の素晴らしさを認め、誇りに思い、自分達の私への最後の言葉として「あなたらしい道を選んだ・・」と言って私を捧げた事に神に感謝し私への励ましをし、旅立ちました。私にとって、両親からのこのような言葉を受け取ることができたことは私の召命の確認を助け、大きな感謝と励ましとなっています。このように出来事を通してそこから見える神の導きを確認し、神の意志を知り、応えてゆきたいと歩んでいる私の足跡を眺めることができます。

「足跡」という詩があります。多くの人が、自分の人生の振り返りなどのヒントとして活用したりしているこの詩、私にも同じような「足跡」を見ることが出来ます。その私の足跡を見ると、人生の貴重な体験(出来事・人とのかかわり・考え・疑問・・)を通して、神が今日の私の為にどのように意思を示し、関わってくださったかを見ることができます。この関わりが足跡となって、私の誕生から今日の私が存在しています。

私 の 召 命