Sr.春日撮子

            わたしはあなたを母の胎内に造る前から
              あなたを知っていた。″
 
エレミヤ1/5

 

  島根県の片田舎出雲で生まれ育った私は、キリスト教には全く縁がなかった。 それにもかかわらず、人の心に本来備えられている真理を探究するという羅針盤が静かに着実に作動し続けていたように思う。
 中一の時、ある出来事から、絶対的に信頼していた先生の中の一人に躓き、大人、社会に対して失望し、何故不正がまかり通り、真実が真実とし通用しないのか″と葛藤が続き人は何のために生きるのか、真理とは何か″と絶えず探し求め続ける。
 高校時代に カンドー神父著 随筆「バスクの星」を読み、かつてない新鮮さ、充実感、求め続けてきた問いに対しての光が差し込んできたものの、それが何処から来ているのか、何なのかは分からなかった。
 大学に入り、数人の友人と興味半分にカトリック松江教会へ行き、公教要理という講座があることを知り、毎週の通いが始まる。毎回、毎回が、これまでの問いに対しての回答の様で、やっと求めていたものに出会えて20歳で受洗する。「探し求めている真理にまだ出合っていない」という父は 私の真理との出会いを理解し心から喜んでくれた。 そして微笑みながら「そうすると修道院に入るということにならないかな?」と言われて驚く!

道であり 真理であり 命であるキリスト″に魅了され、生涯を賭けて生きる方はこの方以外にない″そして生きる目的、意味、意義を探し求めている多くの人に この福音を伝え、分かち合いたい″という望みにかられ、修道院に入ると決めていたから!  しかしすべてを置いて主に従う″ための第一歩である今生の別れ″という厳しく狭い門を通過しなければならなかった。 (大聖テレジアは、身が引き裂かれる″程の苦しみだったと自叙伝に書いておられる。)

援助マリア会に魅かれたのは 貧しさ、質素、素朴、自然体、明るい雰囲気、 

修道会が、キリスト、聖体、教会中心に生きている 会の目的が一つの事業のためではなく、その時代、その土地の必要に応じる。 特に貧しい人、若者の霊的人間的成長を助けると言う柔軟性だった。

  昨年は、修道生活50年という金祝の年にあたり(すでに!!)広島教区で企画された司祭修道者たちのための盛大な祭典に与らせていただいた。 召命は個人的なものでありながら、個人のものではなく教会の為、教会のものであることを再認識させていただいた。 そして今日 私のために親、きょうだいを捨てるものは、この世からすでに100倍の報いを受ける。″というイエスのみ言葉は真実であることを体験し続ける感謝の日々でしかない。  

♪神の計らいは限りなく生涯わたしはその中に生きる♪