フィリピンで、シスターの働き
  信徒の会・スコラの会
Sr .佐 藤 満 子
ウェブ アニメーター

受洗は両親の強い反対のために、自分の意思できめられる20歳になるまで待ちました。1951年のクリスマスイヴに両親には何も言わずに洗礼の恵みを頂きました。

修道召命のことなど両親に言える雰囲気ではなかったので、しばらく東京の大学(カトリック)で勉強しその間いろいろな楽しい体験もしながら信仰生活を続けました。ミサ、聖体礼拝、イグナチオの霊操は、その後の私の歩みに大きな助けとなりました。

援助マリア会のシスターたちの出会いから十数年たちました。主は忍耐強く私が「はい」とこたえるのを待ってくださいました。1960年春修道召命の選定の黙想をし、受け入れられることが決まった時、飛び上がってよろこびました。父は私が大学生の時ガンで亡くなり、母はもし私が幸せならばとゆるしてくれました。

1960年9月29日、主は私の「はい」を受け入れてくださいました。年老いた母を一人置いて援助マリア会に入会しました。29歳でした。その時に5人の仲間と一緒に入会しました。

2011年5人とも元気で修道生活50年の金祝を祝い、神の忠実な愛を感謝しました。私は今81歳になりました。主はとこしえに賛美されますように!

最近教皇フランシスは神の呼びかけにこたえようとしている若い人たちに「悲しみの中に成聖はありえません」と指摘され「主の喜び」を強調しておられます。

こんなひどい日本にシスターたちはなぜ遠い国から来られたのだろうと不思議でしたが、自分がシスターになって宣教地に行くことを望むようになってから初めてその本当の意味を知りました。彼女たちは私に宣教者の心を育ててくださいました。私は1997年5月フィリピンに創立のため派遣され今に至っています。

シスターとの出会いと並んで、カトリック教会の神父様との出会いがありました。主にイエズス会のいろいろな神父様方に助けられました。キリスト教を全く知らない家庭に生まれ育った私はシスターたちが信じているカトリックの宗教を知りたいと思いました。そして、ベルギー人の神父様から要理を習いました。2年目の終り頃、神父様の話を聞いている時、「これだ!」と直感しました。探していた本物、真理と出会った感じがしました。シスターになってから「私は道、真理、命である。」(ヨハネ14;6)というみ言葉を知って感動しました。

「私の召命物語」と言っても、68年前にさかのぼります。若い方たちにとって、経験のない遠い昔のことかもしれませんね。

 1945年8月15日、私たち日本人は敗戦という思いがけないことに直面しました。その9日前8月6日広島に原爆が投下、8日には私が住んでいた福山市が空襲で焦土と化し、その翌日長崎に原爆投下。そして、敗戦。「お国のために」、それは私たち若人にとって生きる目標でした。学徒動員で学校は閉鎖され、生徒は皆製網工場で一日中偽装網作りに専念しました。食料不足で栄養失調寸前の状態でも歯を食いしばり「お国のために」献身しました。戦争で沢山の犠牲者が出ました。しかし、その結果は予想もしなかった敗戦という現実でした。

その時13歳だった私はこの現実に愕然としました。今まで信じて賭けてきたことは無駄でした。虚無感、虚脱感、だまされ裏切られたという怒り、不信感・・・。こんな日々の中でふと奮発心がおこり真実で変わらないもの、真理を探したいと思うようになりました。この模索こそ主が私の心の扉を叩いておられるまさに私への主の呼びかけだったことが後でわかりました。辛く苦しかった体験こそが私の召命の糸口になりました。主はすべてを善に変えてくださいます。(ローマ8;28)

やがて焼け跡の仮校舎で授業が再開、アメリカの学制が導入され、禁じられていた英語の授業が始まりました。もっと英語を習いたいとクラスメートの紹介で出会ったのが、カトリック教会の中で仮住まいしておられた援助マリア会のシスターたちでした。(彼女たちが日本に来られた動機は、「麦の穂は陽を浴びて」第2版、新世社、序文をご覧ください。)

シスターたちとの出会いを通して私は彼女たちの質素で明るい生き方に魅せられました。シスターたちのほほえみと暖かい声かけが敗戦後の殺伐とした中で笑いと喜びを忘れがちな私への大きなメッセージでした。


天が地と高くこえているように      
        私の道はあなた方の道と異なる。                    
   私の思いはあなた方の思いを          はるかに超えている。
(イザヤ55;9)