「引き揚げ」の時には「いのち」以外の全てのものを失いましたが、修道生活の日々、人々の救いのためにご自分の「いのち」さえ惜しまなかったキリスト様の愛を「人々と共に生きる喜び」を頂いて、度々祈りの中であの広い中国の青空..美しい桜.、黄色い連翹の風景を思い出しながら、今も変わらない「大きい神様」を仰ぎみています。そして過ぎた日々、ずっと神様が共に居てくださったことを心から感謝し、これからの日々もその愛の中を歩める恵みに、前もって感謝しています。

日本に無事に帰国してから私たち姉妹は、カトリック・ミッションスクールに入学しました。 神様はまず、高校二年生の時に私を「洗礼」の恵みに引き寄せ、すでに嫁いでいた二人の姉妹を残して、愛する両親と三人の姉妹に次々と「信仰の恵み」を与えてくださいました。皆がそれぞれの道を歩み、母を癌で亡くしてから私が修道院に入るには、やはり父の猛反対にあいました。父は普通に幸せな結婚生活を私に望んでいたのでしょう。私は父と二人で「自分の人生」についてよく話し合い、修道会に入会する前に、この「召し出し」は本ものかどうか「九日間の選定の黙想」にあずかって、同伴してくださったイエズス会の神父様にしっかり確認していただきました。
 私の初誓願の時に、父は姉と友人たちと下関長府の修練院に来てくれて、誓願式の美しいミサ、神父様方や、優しいシスターたちに会い、深く感動して「和子は私の子供の中で一番の幸せ者だ!」と言ってくれましたよ。その通り、今、私は74歳になりますが本当に幸せ者だと思っています。

それから修道院に入るまで、本当に長い道を歩むことになりますが、大きなもう一つの「愛のあり方」との出会いがあります。
 第二次世界大戦が終わった時、父は「上海」、母と私たちは「北京」にいました。従って父と家族とは離ればなれのまま「引き揚げ」てきたのですが、その大変な引き揚げの時に、若いころプロテスタントの有名な牧師・海老名弾正という方から聖書を学んでいた母は、こともあろうに「日本人集結所」で母親を亡くした他人様の幼い子供を三人引き取り、姉に大事な荷物を捨てさせて背中に赤子を結びつけ、自分の子供六人と総勢九人の子供を連れて日本に「引き揚げ」て来たのです。まだ50歳にもなっていなかったのにです。私と妹ははビービー泣く小さな子の手を引いて歩きました。覚えていない「日本」という国に向かって。そして父は何カ月も後から無事に上海から帰って来てくれました....。

 私の「宗教心」の一つはこの母から得た「生きざまの遺産」だと思っています。何を一番大切にして人は生きてゆくのか...と。そしていつの間にか母のように「何よりもいのちを大切に人のために生きたい」という女の子に育っていきました。

六人姉妹の五番目の私が四歳の時、父の仕事のためにこの日本を離れて中国の青島(チンタオ)とい分う所に家族そろって渡りました。青島は海の近くでとても美しいところです。
 中国に住みなれたある春の朝、多分五〜六歳の頃だったと思いますが、一人で外玄関に新聞を取りに行った時のことです。広い青空の下に桜並木は花盛り....そしてその足元に連翹(れんぎょう)のまっ黄色の花がずうっと続き、またその下にベゴニアの花が咲き乱れていました。
 その朝の光景の美しさに「あゝ、なんてきれいな!!」 子供なりに誰か人間以上の方がおられる!と直感してじっと立ちつくしている自分を、時が止まったかのように思い出すことが出来ます。

これが「どなたかわからない偉大な方」との最初の出会いでした。
私たちは 自分の召し出しの恵みについて「それまでの自分の生涯」を、祈りの中で振り返る作業をすることがあります。神様がいつ、何を、そして誰を通して声をかけてくださったのでしょうか...と。私にとってその「一番最初の神様との出会い」は「自然」を通してでした。
召 し 出 し の 不 思 議