様々な矛盾を感じて、禅を止める決心をし、新たな道を探し始めました。ある時は、魅力的な方、とても親身に助けてくださった方々に出会い、私もこの方と同じ所で生きられないものだろうか、と思いましたが、いざとなると何か違うと感じて、一歩を踏み出すことができませんでした。

試行錯誤の後、ある黙想会の折に、私の心の奥深くに潜んでいた望みが、突然浮かび上がってきました。以前、長崎巡礼に出かけた折に出会った援助マリア会でした。シスターからいただいた創立者の伝記の後味が残っていたのです。よく調べ、訪ねてみると、これこそ私の探していたものでした。

入会後何度も「本当にここでいいのか」、と自問することがありましたが、主は常に困難を乗り越える恵みを与え、前に進ませてくださいました。

カメルーンに派遣された時、私の小学校の校長先生だったシスターに出会い、彼女がキリストだけを見つめている輝きを、あの子供の時も見ていたのだ、ということが思い出されました。それはキリストから発する輝きです。主はこの輝きによって今日まで私を導いてくださっていたのです。

終生誓願を立てた今、長い間さまよいながら求め続けていた主に、しっかりと抱きとめられた感謝と喜びで一杯です。

                                             Sr.マリー・有粧

こうして坐禅の魅力に引き込まれながらも、ご聖体をいただきたい、もっと奥まで知りたい、という望みに押されて、洗礼準備の勉強を始め、約一年後、受洗の恵みを頂きました。

 受洗してからは「神の子」と聞いた時の雷体験はなくなり(それは洗礼までの呼び水だったのでしょうか)、そのうちに禅にのめりこんでいきました。人々はそういう私を見て、「あなたの禅の師はどのように教えているの?」「あなたの師は神父だけれど・・・」と、何かにつけ尋ねるようになりました。
 その度に、私にとって何より大切なキリスト教の信仰が禅に隠されてしまっていることに不満を感じるようになり、
「私は禅ではなくキリストによって救われ、キリストによって幸せなのだ」、「私の師はキリストだ!」と声高く宣言したい気持ちが強まっていきました。

 その内、校長先生であるシスターが、「あなたたちは『神の子』です」といわれる度に、雷のようなものが私の全身を貫き、歓喜に満たされるようになりました。

 小学校4年にあがる時、父の転勤で転校してからは、キリスト教とは縁のないところで過ごしていましたが、大学でカトリック信者の先生に出会い、その方に連れられて神父様主催の座禅会に行くようになりました。そこでのミサで神父様から再び、「神の子」という言葉を聞いた時、以前と同じ雷体験が私に起こりました。

主は何と細やかにすべてを取り計らっておられるのでしょうか。
 私の両親は信者でないにも拘わらず、由縁あって私を幼稚園から小学校三年までカトリック校に入れました。その頃宗教の時間はありませんでしたが、気がつくと私は小学校で毎朝毎夕、主の祈りを皆と共に嬉々として唱えていました。
 そして一人で度々この祈りを思い巡らす中で、主は直接その言葉の意味を私に悟らせてくださいました。

「母の胎内に造られる前から・・・」