やがて修道者の数が増え手狭になったので、1962 年、静かな城下町、下関市の

長府に修練院を移しました。ここでは修練者の養成のほかに、小教区教会での信仰

の養成、日曜・土曜学校など依頼に応じて活動しました。

1972年には、西宮・長崎に同時に創立し、その地方の要請に応えて活動を始めました

東京に支部修道院が創設されたのは1991年で、養成や勉学を必要とする修道者の足

場となりました。更に、2007年には、長府から修練院を移し、養成の家になりました。

創立者マリ・テレーズの帰天後55年経った1946年10月20日、彼女の苦悩に満ちた生

涯を通して現れた、神に対する熱い信頼と謙遜がたたえられ、ローマバチカン大聖堂

で荘厳な列福式が行われました。奇しくもこのとき出席されたイエズス会日本管区長                

新しい建物を建て、次第に会員たちの活動も安定した1861年、突然に恐ろしい火事に見舞わ

れ、すべてが破壊されるという悲しみに会いました。しかし、神のみ旨は何もないところから新

多くの女性とのかかわりにおいて、教育の必要性をつぶさに感じた修道会は、

1870年後半にパリに教育事業を開設し、後パリのボスケ通りに移して幼稚園児から

高校生までの女子の教育に力を注ぎました。

1884年にはリヨンに、1886 年にはナポリへ、1921年にはイギリスのフィンチレーへ

と学校を開き、リボスでは家庭専門学校を設立するなど、その地方地方で必要と

される限り必要とされる形で開いてゆきました。

戦後間もない日本では何が必要とされているか、また自分たちの手では何

が出来るかと研究を重ね、敗戦の日本を早く立て直すためには、教育が何より

必要であるとの結論を得て、教育事業をはじめることにしました。この地にミ

ッションスクールは珍しく、しっかりした価値観を持つ女性の教育が高く評価さ

れて、地域の人々から大きな支援を得てきました。

地方から都会の工場に働きに来た女子工員の中には、厳しい環境の中で、病気にか

かってしまう人がいました。マリ・テレーズは、パリに寮を開いたとき、寮生の女性た

ちが病気になって貧しくなり、生活が破綻してしまわないように、共助組合を創設し

ようと考えていました。これは毎月わずかずつ掛け金を支払い、病気になった時に、

シスターたちの世話が受けられるというものでした。この組合は画期的なもので、そ

の後、大きく発展し、やがてヴィルパント法人が誕生することになります。現代の保

険制度のさきがけとなりました。

援助マリア会のあゆみ
ヴィルパント法人では、結核検診のための無料診療所をパリに、療養所をリブリに

開きましたが、すぐに収容人数がいっぱいになり手狭になったため、1881年、サナトリ

ウムをヴィルパントに移設しました。サナトリウムはヨーロッパで最初の試みであった

ため、結核菌発見者であるロベルト・コッホはここを訪れています

 活動修道会「援助マリア会」の創立

ヴィルパントを訪れるヴァン・コッホ(右端)

しい命を甦らせることにあったのです。

テレーズをはじめ、会員たちの心の中には、もっと本格的な修道

生活への望みがふつふつと湧いてきました。マリ・テレーズは30日に

わたる「イグナチオの霊操」を行い、種々の可能性の中で、「援助マリ

ア会」という活動修道会を始めることを決心しました。

援助マリア会の特徴は特定の事業に固執するのでなく、その時代、その国の必要に応

じて、つつましい草分けの仕事を受け持ち、必要がなくなったら身を引くことをモットー

としているため、結核患者の減少とともに療養所のいくつかを閉じ、まだ誰も手をつけ

ていなかったハンディキャップの子供たちの医療施設を開設したりしました。

パリ ボスケ通りの学校

一方ヨーロッパにおいても、アフリカ大陸に枝を広げ、1967年にはカメルーンに支部

修道会を創設し、主としてカテケージスや病院における医療業務に従事しました。

カメルーンでは現在3つの修道院を設立し、それぞれの必要に応えた活動をしてい

ます。

バチカン公会議後、社会における信徒の使命が見直され、教会活動も信徒

の手で活発に運営されるようになりました。その精神的よりどころとして、修

道会の霊性を求める気運が高まってきて、援助マリア会も、福者マリ・テレーズ

が私たちに残した霊性を、社会で生き生きと働いている信徒の人々にも分か

ち合いたいと、1987年にダブリンで、次いで各国各地で、日本には1992年に「

援助マリア会信徒の会」を設立しました。:現在は修道女と信徒の会員の相互

支援で生き生きと活動しています。

援助マリア会は1854年、南フランスのカステルノーダ

リーにおいて、マリ・テレーズによって創立されました。


(カステルノダリーは、トゥルーズとカルカッソンノ中央に位置する)

の依頼を受けて、日本への創立が決定されまし

た。

翌年の12月10日、最初の4人の援助マリア会員が、

はるばる大西洋からアメリカ大陸を横断し、太平洋

を渡って日本の地、広島県福山に着きました。

 
1951年になって、結核菌に対する抗生物質が発見され、次第に患者

が減少して来たので、サナトリウムは、その後別の医療施設に代わっていきます

紡績工場で働く女性

福山暁の星学院校地で

イギリス フィンチレの学校

ヴィルパントのサナトリウムと医療施設

こうした社会の動きをいち早く察知したマリ・テレーズとシスターたちは、トゥール

ーズで、ただ単に住まいを提供するばかりでなく、安定さと温かさのある愛情にあ

ふれた家庭的な寮(メゾン・ド・ファミーユ)を開いて、若い女性たちを迎えました。

 共助組合と結核療養所サナトリウムの設立

サナトリウム

1870年、援助マリア会は海を越えてイギリスへ、1886年にはイタリアへ、また

1947年には日本へ、1953年にはアイルランドのダブリンへと枝を伸ばして行き

ましたローマ、ダブリンは「家族の家」、ナポリ、ローマ、イギリスは主として教

育事業に携わるほか、祈りの指導、生活の援助など、周りの人々が必要とする

仕事は、会員のささやかな力でできる限り何一つ拒まず、喜んで行いました。

日本に創立 教育事業を始める 
 

下関長府・西宮・長崎・東京に支部修道院創立

ヨーロッパからミッショネールが派遣されてまかれた種が、33年の間に実を結び、日本地区も

ようやく海外へミッショネールを送るまでになりました。

ローマ・ヴァチカンで

日本地区から海外に支部創立

「家族の家」は同じ雰囲気を持つ「女子寮」に変わり、また、教育事業や行政が力を入れ

るようになってくると、ヨーロッパにおいては学校を閉じて、より貧しい人々に目を向け

た仕事に従事しています。その時代、その地域の必要に応じて、私たちに要求されている

ことは無限に存在し、形を変えながらも尽きることのない宣教事業に発展していきます

「ベギナージュ」の発足

信徒の会の集まり

カメルーンの子供たち

暁の星学院 のち修道院

ローマの学校

 教育事業 学校の創立

会則を記すマリーテレーズ


 国境越えて広がる援助マリア会

マリ・スビランの列福式

この「家族の家」は、当時目新しく、すぐに他の教区にも知られるようになりました。

そして、他の大都市にも、トゥールーズの「家族の家」と同様の寮を開設する要請を受

け、それに応えて、アミアン(1869)、リヨン(1869)、パリ(1872)、アンジェ(1873)に開設していきました。

「家族の家」の庭で

戦後の福山駅

前後して、1980には日本地区から、初めて海外オセアニアのポンペイに支部を開設し、更に1985年には隣国の韓国に

修道院を設立しました。フィリッピンにも1996年に家を開き、貧しくとも心豊かな人々と共に自立した生活の道を模索

しています。また、ポンペイ創立から23年経った2003年には隣の島チュークに枝を伸ばして、神の国の宣教に当たっ

ています

ヨーロッパ地区からアフリカカメルーンに

種々の施設の変遷

韓  国

フィリピン

ポンペイ

結核が猛威を振るう中で、次々と1920年には

シャンパーニュ地方にあるエペルネーの家も、

サナトリウムに改築されました

20歳のとき、マリ・テレーズは心の中に呼びかけられる神の言葉に従って、社会に

あって人々に奉仕するための準修道会ともいえる「ベギナージュ」をはじめました。

彼女の計画に賛同する若い女性が次第に集まり、その地の必要に応えて孤児院を始めました。

援助マリア信徒の会設立

 「家族の家」創立

19世紀半ば、近代化によって社会が激動的に変化する中で、

労働力として、大勢の若い人たちが地方から都会に移動して

来ましたが、都会の独身女性の生活条件・労働条件は厳しく、

不安定なものでした。

また、1893年には、シャンローゼの大きな家屋が修道会に遺贈され、回復期にある子どもや女性たちの療養の家として開

かれました。地中海に面したイエールにも1895年に開きましたが、その後、ル・プラデに移設され(1920)、1962年まで、療

養患者を迎えました。
 

東京修道院

長崎修道院

西宮修道院

長府修道院