イエスは何故ユダを弟子に選らばれたのか

イエスは何故ユダを十二人の弟子の一人に選ばれたのだろうか。四旬節になる
と浮かんでくる一つの疑問である。

人の特質を一目で見分け、弟子の将来を予見してシモンをペトロと名付けられ
たイエス(ヨハネ1:42) が、ユダの人間性を前もって解られないはずはないと思
うからだ。

弟子にはそれぞれ個性があり、欠点があるが、みな師を非常に尊敬し愛してお
り、また素直で単純である。しかし、ユダにはそうした主への尊敬は見られず、
イエスの一番苦しいとき、裏切って死に渡そうとした人物である。

そのようなユダを見ると、彼は野心が強く、師を自分の栄達のために利用しているのではないかと疑いたくなる。イエスの宣教が旺盛なときは、その弟子になることによって栄誉を得たであろう。そして、将来はもっと高いポジションが得られると期待していたに違いない。

意に反してイエスが弟子たちに「自分は長老・司祭長・律法学者から排斥されて殺される」(マタイ16:21) とご自分の死について語り、そちらに向かって歩んで行こうとされるのを見て当てが外れたのであろう。

他の弟子たちも野心がないわけではなく、「弟子の中で誰が一番偉いか(マルコ9/34)」とか、「栄光をお受けになる時、一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください(マルコ10:37)」と願うけれど、イエスの諭しによって、その思いを退けている。

しかし、主を愛することが少なく不誠実なユダ、共同体のお金をごまかして自分のために使うユダ(ヨハネ12:6、使徒伝1:18) に、主はそれと知りながら金入れを預けられる。また貧しい人のことを心にかけず(ヨハネ12:6) 自分中心な彼に、貧しい人々に施す役目を与えられている。(ヨハネ13:29) 教育したかったのであろうか。

最後の晩餐に当たっては、彼が裏切ることが解っていても(ヨハネ13:11)、他の弟子たちと同じように、ユダの足を愛情深く丁寧に洗われる。(ヨハネ12:12) また、イエスを渡そうと席を立つユダに、「しようとしていることを今すぐしなさい(ヨハネ13:27)」と声をかけられる。はたまた、彼が祭司長や民の長老たちの遣わした大勢の群集を引き連れて主に近づき、「先生、こんばんは」と言って、接吻で合図するとき、イエスは抵抗することもなく、「友よ(マタイ26:50」と呼びかけられる。

これだけの寛容な扱いをどう考えればいいのであろうか。

もう一度言う。イエスはユダの裏切りを前もってことごとく知っておられた。では何故十二弟子の中に加えられたのであろうか。


 ユダをよく観察して行くと、我々人類の様々な状態と重なって見えてくる。自己中心な野心家。自分の主義ためなら他を攻撃し抹殺しようとするテロリスト。お金のために不義を働く多くの人々。恩をあだで返し、親切を装って人をだます詐欺師。自分に自信が持てず、失望のうちに自死してゆく人々。等など。

私たち個人の中にもユダの要素はいろいろある。イエスに全面的に従うと言いながら私欲に駆られ、自分勝手に行動する不従順。人を十分に愛さないで行ううわべの親切。言い訳のために小さな誤魔化しをする不誠実。人を悪く言い、相手を仲間内で不利に立たせる傾向。等など。

 イエスはユダの中に私たちを見ておられたのではなかろうか。そのために咎め立てをしないで優しく教育しようとし、すべてを寛容に受け入れられたのではないだろうか。ご自分に対する裏切りさえも。

ユダは、とはいえ主を愛していたのであろう、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、自分のあまりの悪さに、赦されることを信じ得ないで、失意のうちに首をくくって死んで行く。(マタイ27:5)

このユダに対して、イエスはそこまで落ちれば救いようがないと思われるであろうか。3年間寝食を共にし、あれほどの愛も持ってすべてを許し、覆い尽くされた主は、迷える羊をどこまでも探し求める羊飼いのようになさるに違いない。そして父なる神に「父よ彼をお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ23:34)」とお願いになるに違いない。

エスはユダを罪びとなる人類の代表として限りなく愛し、後の人々に神の愛がこれほどのものだと分からせるために、選んでくださったのでないかと思う。

彼自身は、「生まれなかった方がその者のために良かった(マルコ14:21)」と言われるほど苦しんだに違いないが、後世の人々は神の深い愛を垣間見ることが出来て大きな希望となった。

主の復活後、他の弟子たちには尊い宣教の使命が与えられたが、ユダは神の愛の素晴らしさを表す使命を負う者となった。

                                                      2013.2  C.T