三位一体の神と受肉・救いの業

3.教会以外の人々の救い

 創造主である神は愛を持って人類を創造され、罪によって神から遠ざかってしまった人類を、御子イエスによって再び救われたと既に述べた。聖書にも「み言葉(御子)を受け入れた者、その名を信じた者には、神の子となる資格が与えられた。(ヨハネ112)」とある。

では神の子イエス・キリストを知らない人たちの救いはどうなるのであろうか。日本のように、キリストを知る機会をまったく持たないままに死を迎える人の救いはどうなるのであろうか。

 キリスト教では、チプリアヌスから始まって「教会の外には救いはない」という考え方が、初代教会から中世を経て現代にいたるまで、教会に属する人々によって保持されてきた。

16世紀半ば、フランシスコ・ザビエルの時代にも「洗礼を受けていない人はみな地獄に行く」という考えの下に、宣教師は熱心に宣教に励んだ。

 全宇宙の創造主である神が、その一人子イエス・キリストによって世の人々を救われたのであるから、当然キリストを通さない救いはありえないという考えである。

 しかし、人類に対する神の慈しみには限りがない。

現代になって、1962年に始まった第二バチカン公会議では、「福音を受けなかった人々もいろいろな意味で神の民に秩序付けられている。影と像のうちに知られざる神を捜し求めている人々から神は遠くない(教会憲章16)」と教会外の人の救いの可能性に言及し、また、20世紀を代表する神学者カール・ラーナーも「無名のキリスト者」の考えの下に、キリストを知らないある人が良心的態度に基づき、すでに救いへと向かっているとすれば、何らかの仕方で教会の構成員でありうる、と救いの考えを発展させている。

 これについて、キリストの次の例えは上記の考えをよく説明しているように思う。

『天の国は、次のようにたとえられる。網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集める。網が
いっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛
る炉に投げ込むのである。』(マタイ13:47

 この網は教会である。キリストを信じ、キリストに結ばれた者は教会の網の目を構成して行く。そしてキリストの救いに強くつながっている人々はより堅固な網の目を形成していく。(ヨハネ15葡萄の木のたとえ)

 神はその網を、古今東西を通じて全世界に投げ入れられる。人間社会である大海には多くの魚が自由に泳いでいる。その魚とはキリストを知らず、教会に組み入れられないまま、ただ良心を指針として生活し、自由に生きている人々である。

 それらの自由に生きている魚は、神が投げいれられる教会の網の中で救われる。

すなわち、すべての人は、天地万物を創造された神と、世の罪を購われたキリスト、そのキリストが救いの任務をゆだねられた教会によって救われるのである。

しかし、その救いは、十把一からげというわけではない。その魚の中で、良心(心の中に埋め込まれた神の声)に決定的に背いたものは、悪いものとして外に投げ捨てられる。究極的には救いは個人の責任にも、かかっているからである。

  そう考えると、人々を良心の勧めに沿って正しい道に導く諸宗教の多くは、なんらかの形で教会の網に組み入れられ、人々の救いに協力しているとも考えられるのではなかろうか。

 ♪「神の計らいは愛に満ちて限りなく、すべてを人々の救いに導いてくださる」♪