三位一体の神と受肉・救いの業

2.受肉と救いの業

前述したように、人間が地上に現れたとき、父なる神は、子を人類の歴史の中に受肉させて神の永遠のいのち(聖霊)を充満させ、人間を三位一体の愛の躍動に参与させる計画であった。「天地創造の前に神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なるもの、穢れのないものにしようと、キリストにおいてお選びになった。イエス・キリストによって神の子にしようと御心のままに前もってお定めになった。(エフェゾ1:3-5)」のである。

  しかし、人類は神から受けた自由意志で神に敵対し、神のいのちを失ってしまうばかりか、人類全体に、悪と戦う力を弱めるという影響を残してしまった。

人間は一人一人各自の責任をとる独立した存在であると同時に、深いところではつながっていて、共同の責任を負うものである。一人の罪は、人類共同体を弱め、一人の愛の行いは、共同体を清め、強くする。最初の人間の罪は後に続く人間の心を弱め、罪が罪を生んでいった。

反抗して離れていった人間を神は、なおかつ愛し、創造の初めから定められた愛の計画に引き戻すことを望まれた。

それゆえ、神の子が人間となってこの世に来られたとき、彼には人類を神の最初の計画に引き戻す使命、即ち人類の罪をあがなうという使命がつけ加えられた。(ヨハネ3:16-17

 神の子は、マリアを通って受肉し、全き人間となって人間の歴史に入られた。罪の穢れのない人間イエスの誕生である。マリアはイエスが通過する門として、おのずと罪の穢れから守られた。そして更に、イエスを信じる者、イエスの言葉を受け入れる者もみな清められた。(ヨハネ15:3

しかし、人類(・・)全体(・・)を清め、罪を償うためには、人類の傲慢に勝る謙遜、反抗に勝る従順、憎しみに勝る愛の行いが必要であった。イエスは人間として、生涯にわたってそれを行い、最後には十字架の苦しみの中で自分とともに人類全体を捧げ罪を償われたイエスの死にって、神と人間を隔てていた神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、人間と神の間に道が開かれた(マタイ2751)。更に言うならば人祖の罪によって閉ざされた命の木に至る道が(Gn3:24)「私は道である」と言われた神の子イエスによって回復されたのである。父なる神はイエスを人類の初穂として復活させ、長子であるイエスに続いて人類全体には、永遠のいのちを受ける希望を与えられた。

現在、人類全体は予定として救われた状態にある。しかし人間の自由意志を尊重される神は、一人一人の人間に、良心を通して救いへの望みを問いかけられる。各人は自分の自由意志によって、応えなければならない。救いを望む人の心には聖霊が宿り、三位一体の愛の交流の中に招き入れられる。