三位一体の神と受肉・救いの業

1.三位一体のイメージ

「三位一体」という神の概念は、教会の初めから大きな疑問を投げかけてきた。信仰者または学者は
三位の神についていろいろな解釈を試み、モナルキアニズム、アリアニズム、マケドニウス派など種々
の異端を生じるほどであった。

実際、三つのペルソナでありながら、神は唯一であるという考えは人間には理解しにくい。神は完全無欠の方ならば、ただお一体だけであるはずなのに、三位もおられるというのはそれぞれにどこか欠けた所があるということなのかとの疑問も生じる。

反対に「神は愛なり」と言いながら、神がただお一人であられた場合は「神は愛」と言えるのであろうか。「愛」は対象に向けて発せられる躍動であるからだ。

 四世紀のころ、聖アウグスチヌスは三位一体の神学的論証を思い巡らしながら浜辺を行きつ戻りつし
ていた時、砂浜に掘った小さな穴に大海の水を全部入れようと懸命になっている一人の子どもを見た。
「それは無理だよ」と言って制したところ、その子から「あなたこそ同じことをしている」と言われて
、彼は神の偉大な考えを自分の小さな頭で理解しょうと無理していたことに気がついたという。以来
「三位一体」は神の秘義であり、人知の及ぶところではないという考え方が長い間定着してきた。

現在に至っても、多くの信徒は、そして時には司祭も「三位一体」は人知の及ばない神の秘儀という言葉で片付けてしまうのは残念なことである。

 さて、昔から「三位一体」のイメージとして「三つの角をもつ一つの三角形」とか、アイルランドの聖
人パトリックが説明に使ったように、三つ葉のクローバーでイメージしてきた。理論的には理解しやすい
が、しかし、何とも無機質で平面的、生き生きとした生命力に欠けているように思う。

 
30数年前、私はある老司祭から「三位一体」に関する感動的な説明を聞いたことがある。以下紹介
してみたいと思う。

 「限りなく完全で、永遠無限の父なる神は、自分のすべてを与えることによって、子を永遠に産
んだ。父の本性 (全知全能、聖、永遠、完全など)はすべて子に与えられたので、子は父と全く等
しい神であった。違いは、子がすべてを父から受ける存在であるということである。父はすべてを
与え続け、子はすべてを感謝を持って父に自己贈与する。ここに、ダイナミックな愛の交流が生まれ
る。このお二方の間の「愛」こそ「聖霊」である。

聖霊は父と子と等しく、神となられ、神のいのちともなられた。更に聖霊は父と子をより強く結び付
け、三位が一体となる。三位の間には愛が怒涛のように流れた。「神は愛なり」といわれる所以がそ
こにある。

この三位の愛の交流の中で、人間は将来この交流にあずかる者として、創造された。神は限りある人間にも「子」と「聖霊」を与え、永遠に生きる者となるよう予定された。人間が、三位における「子」のように、父なる神に感謝を持って自己贈与すればここにも愛の交流が始まり、永遠に幸せな三位一体の愛の怒涛の中に入るはずであった。しかし人間はそれを拒んだ。神と同等なものになりたいという(Gn35)傲慢心で神へ挑戦、離反したからである。その結果、当然のこと神のいのちを失ってしまった。

しかし神はそうした人間を哀れに思い、もう一度創造された時の目的に引き戻そうと計画された。