罪 と 救 い (2)

キリストの復活の出現は、信仰が薄く師の死に失望している弟子たちに、目に見える形をもって、慰めと希望、そして信仰を与えるためであった。40日たって復活信仰が確信となった弟子たちに、もはやキリストを地上の見える姿で探すことなく、信仰において歩むようにと、天に昇る姿で離れていかれたのである。

 イエス・キリストは、人間として最初に永遠の生命に入られた。神は復活によってそれを証明された。そして、このキリストの復活によって、人間は永遠の命に入る希望をもつことができるようになった。世の終りには人類は霊の体で復活し、肉体も共に神の栄光にあずかるであろう

<復活>                                 

 キリストは死んで三日目に復活された。復活は蘇生ではない。復活は、人類創造の時から予定
されていた通りに、「肉体を持って永遠の愛の生命に入る」ということである。それゆえ復活体
は、4次元の世界・空間にも時間にも制限されることはなく、自由な体になるのである。パウロ
は、復活体について、「自然の命の体から、霊の体になる」と語っている。また、福音書には、
閉じてあった部屋にキリストは現れ、弟子たちと共に食事をし、40日目に天に昇られたと書か
れている。

 一つは、父なる神がどんなに人間を愛しておられるかを、ご自分の言葉と行いをもって切々と示すことである。二つ目は、人間の取るべき態度は、へりくだって父なる神に立ち帰ると共に、感謝と愛を持って生きること、すなわち、隣人を我が身のように愛し、人類共同体が一つになって神の栄光に入るという、天地創造の初めに抱かれたご計画に、立ち戻ることであると教えることである。そして、最後は、イエスご自身が、神と人とに対する完全な愛と献身的な生き方をもって罪に打ち勝ち、人類の罪を贖うことである。 善良な行いは悪を刺激する。イエス・キリストは、罪人や虐げられている人々に大きな愛を示した。これに対して、当時ユダヤの支配者階級にはびこっていた悪は、イエスに真っ向から挑みかかり、散々苦しめた揚げ句、ついに十字架の上で殺してしまった。十字架は、当時、極悪な犯罪を犯した奴隷が受ける刑であった。神の子は人間となり、しかも、一番底辺の人間にまでへりくだられたのである。これは贖うべき人間の罪が、それ程醜く重かったことをも意味している。イエス・キリストは、死の時が迫ったとき、人類のその醜く重い罪のすべてを一身に背負って、完全無欠の神に対峙されなければならなかった。善そのもの、愛そのものである神から、途方もなく隔たっていることの苦しみに、思わず、「わが神よ、わが神よ、何故私を見捨てられたのかと、悲痛な叫びをあげられたのである。今まで、神との明状しがたい親しい交わりのうちに生きておられたイエス・キリストにとって、それはどんなに苦しいことだったであろうか。イエスは、神と人との前に、そこまでへりくだって自分を無とし、服従された。

 悪も罪も、このイエスの極みまでの愛と謙遜には勝つことができなかった。イエスは、自分を傷つけ死に追いやる人々のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのですから」と祈られ、また、「友のために命を捨てるほど大きな愛はない」という言葉通り、人類のすべての罪の贖いのために、ご自分の命を死に渡されたのである。ここに、イエス・キリストの人間としての愛は勝利した。そして人類も、この愛によって永遠の命を取り戻す権利が与えられたのである。

 今、この永遠の命の獲得は、各個人の自由にゆだねられている。したがって、すべての人が救われ永遠の命に生きるためには、神の愛を信じ、イエス・キリストの教えや良心の声に従って、愛にかなった生活をする必要がある。

<罪からの救い>

しかし神は、自分に反逆し、離反していく人間をなおかつ愛された。イエス・キリストが話
された例え話、「放蕩息子」に出てくる父親のように、罪を犯した人間が、自分の元に戻って
くるのを一日千秋の思いで待っておられるのである。神のその思いは預言者によって再三語ら
れた。にも拘らず、一度離れた人間の心は愛が弱まり、疑い深く悪に満ち、容易に神に立ち戻
ることはできない。人類はもはや罪によって神の生命を失い、三位一体のあふれる愛の交流の
中へ入ることはできなくなったのである。このままでいけば、残るのは全く愛のない状態、恨
みとねたみ、憎しみなどの、永遠の苦しみだけである。

 そこで、神と人間との間を取り持つ仲介者が必要になった。神と人間との間の無限の隔たり
を取り持つ仲介者は、完全な人間であり、同時に神と等しい方でなければならない。神の子イ
エス・キリストは、仲介者の使命をもって、この世に誕生された。仲介者の役目は大きく分け
て三つある。