罪 と 救 い ( 1 )       

 


<悪の起源と原罪>

 それにもかかわらず、人類の歴史を見ると、多くの災いや悪によって人類は分裂を繰り返しており、
神に向かって収斂しているようには思えない。一体これらの悪はどこから生じるのであろうか。

 創世記3章は悪の起源について次のように説明している。神が造られた生き物の中で最も賢い蛇が、
女(エヴァ)を誘惑し、人(アダム)は取って食べてはならないといわれた「善悪を知る木」の実を
取って食べた、というのである。人は神から与えられた自由意志によって、良心の声に逆らうことも
できる。しかしそれは神に対する反逆であり、神の愛を拒むことに他ならない。これが罪である。女
をいざなった蛇は悪魔の象徴である。悪魔は神に反逆し堕落した天使であるといわれている。人間よ
りも優れたものとして造られた天使にも、神を真心をもって愛することができるために自由が与えられた。その自由を持って、最も美しく造られたという光の天使が、傲慢のゆえに神に逆らったのである。真の愛から遠ざかれば遠ざかるほど、憎しみ、ねたみ、怒りの情が強くなる。ついに悪魔となった天使は、神から愛されている人間に敵意を持って、いざなうものとなったと言われている。

 悪魔が存在するかどうかの証明は難しい。ここでは、悪魔の誘惑についての論議は差し控えるが、しかし、悪魔の誘惑がなくても、もともと人間の心の中には、善へ向かう力を阻止する力が働いているものである。人間は本能を越える力を与えられはしたが、本能との戦いは熾烈だからである。本能はそれ自体悪いものではない。本能の基本的な欲求である食欲、性欲、社会欲は、生命の維持、種の繁栄、自己の向上のために必要なものであるが、それらは愛によって裏付けされなければ、多分に自己中心的であり、他者に向かっての開きがない。この自己中心的な本能に閉じ込めようとする力は、仏教で言えば煩悩或いは業と言われるものであり、キリスト教で言えば原罪と呼ばれるものである。 

 <罪の結果>

 「善悪を知る木の実」を食べて神に逆らった人間は、目が開かれて自分が裸であることを知るようになる。自分を愛し支えてくれる神から離反したとき、初めて人は自分は全くの無であり、赤裸であることを悟る。そこで神を恐れて園の木の間に隠れていると、神は来て二人を呼ばれ、それぞれに、蛇には呪いを、エヴァには、愛において一致するはずだった男女の間に不和の生ずることを、アダムには生きることの苦しさを言い渡される。

 主なる神はアダムとエヴァに皮の衣を作って着せ、エデンの園から追い出された。すなわち、人は罪によって心の中に平和を失い、永遠に生きる神の命も失ってしまったのである。しかし神はなお、人の心であるエデンの園…神が最初に予定され、神との親しい交わりを持つ平和な心…を愛し、人がいつかそこに帰ってくるようにと、人間にとって一番大切な「命の木に至る道を守るため、ケルビムと、きらめく剣の炎をおかれた」。人間に与えた神の命を、人間の良心だけで守ることができなくなったので、神はご自身で守ろうとされたのである。そしていつか、女の子孫に蛇と敵対する救い主が出て、蛇を滅ぼし、人間のために「永遠の命」を取り戻すであろうことをほのめかされる。

 一人の罪は、神秘体である人類共同体に影響を与え、全体を弱らせる。そして、ますます罪を犯しやすくさせ、差別、虐待、戦争にまで発展させる。創世記4章には、罪を犯したアダムとエヴァの子供、カインとアベルが登場するが、一つの罪は直ちに他の罪を招き、兄弟殺しに発展する。神に背いた人間の破滅的結果を物語っている場面である。神との関係が切断されると、人間同志の間にも兄弟の絆が切れるのである。そして、こうした罪の在り方は現在の人間とその社会にも及んでいる。我々も、善悪を知る年ごろになると、パウロのいうように、「私は善を成そうという意志はあるが、それを実行できない。自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」というようになるのである。一人一人の心の中にある自己中心的な傾向は、相手の愛、権利、社会的地位、生命をさえも犯すところにまでも進展する可能性を孕んでいる。すなわち、古今東西を問わず誰一人として、「自分に罪はない」と言いきれる人はいないのである。