<宇宙創造>

 聖書の中で、天地創造について述べているのはおもに創世記である。これは旧約聖書のうち、モーゼ五書と呼ばれるものの一つで、信仰の基礎をなす「律法の書」である。

 古くから口伝で言い伝えられてきた事柄が、BC750500 年頃書かれたといわれている。叙述表現は、繰り返し口伝されたため詩の形を成し、象徴的であり、また、当時の宇宙観に沿って稚拙な表現で書かれているが、神、人間の本質については、非常に明確な神学が呈示されている。    最初のページをひもとくと、「初めに神は天地を創造された」の言葉で始まる。当時、ユダヤの周囲には中東メソポタミア、ナイル地方、インダス川流域、ギリシャの大文化圏があってそれぞれ神話を有しており、創世記の叙述方法に影響を与えていると思われるが、内容は全く異なっている。大文化圏の神話に登場する神はどこからか現れてきて多数であり、お互いに競い合い、人間はたいてい哀れな生き物として登場している。また宇宙はいつどこから生じたのかはっきりしないまま、ただ漠然と存在しているのがほとんどである。

 しかし、創世記においては、初めから神は当然存在するものとして存在しており、その神によってすべてのものが創造されたことが威厳を持って述べられている。光、水、空、陸、そして、多くの神話の中で神の一つと考えられている太陽も月も、また、草と木、魚、鳥、地の獣も、神の意志を実現する“ことば“で創造された。神はそれらを造るたびに「良かった」と満足し、すべての創造を終えた後、「それは、極めて良かった」と大満足で眺めておられるのである。すなわち、神が造られたもので、悪いものは何ひとつなかったのである。    

 宇宙は、神の愛の、止むに止まれない迸出として創造された。神は無限の愛にあずからせるために、人間を、宇宙を、創造されたのである。創造された宇宙の種が、ビッグ・バンの力によって殻を破り、成長して、次々と新しい物質や生き物を生じていくさまは、神の目から見て、すべて美しく、いとしいものに映ったであろう。

 

<人間の創造とその目的>

 人間の創造に当たって、神は自らの手で土を捏ね、特別な慈しみを持って造られた。さらに神は「我々にかたどり、われわれに似せて人間を造ろう」と、「息を吹き掛け」、「生きるもの」とされたと記載されている。人は誰しも自分に似た者を愛する。神も自分に似たものとして、愛する人間を造ろうとされた。神に似たものとは、いろいろに解釈できるが、第一の特徴は、絶えざる愛の交流を営む神に似せて、愛する能力が与えられたということであろう。神とは父と子と聖霊の三位一体の神である。父と子は完全な愛で互いを愛し、余すところなく自らを与え合い、その完全な愛は、聖霊、すなわち、三位の神の一方となられた。この三位の間を流れるダイナミックな愛の交流に似た愛の営みができるものとして、人間を造られたということであろう。   真に愛するためには、何にも束縛されない完全な自由が必要である。人間は本能の束縛から解き放たれ、完全に自由になった。そうして得られた愛は、自己の殻を破って他者に向かわせ、神との自由な個人的な関係に入らせるとともに、互いの愛によって三位一体的な一致へ向かわせるものであった。しかし、完全に自由になると、リスクがある。善を選び取ることもできるが、放棄することもできる。神は大きなリスクを予測しながらも、人間が真に愛するようになるために、寛大に自由を与えられた。

次に、「神は命の息を吹き込まれた。こうして人は生きるものとなった」とある。命の息とは「神の永遠の命」のことである。これによって、人間は永遠に「生きるもの」になった。この状態こそ創造のときに神が望まれた真の人間の姿であった。

 この神の命は、人間が出現して初めて宇宙の歴史の中にもたらされることになった。人間が現れ、霊的な働きができる霊魂が生じた時、霊魂を受け皿として与えられたのである。そしてそれは、後に人間となって宇宙の歴史の中に入られた、神の第二のペルソナ、イエス・キリストを通して、人類に出現の最初から与えられた。イエス・キリストの受肉(神が人間になること)は、実際には人類が現れて相当歴史を経てからのことであるが、時間を超越する永遠の存在である神においては、どの時期に受肉しても、もたらされる結果は同じだからである。今世紀の大神学者カール・ラーナーは、「キリストのこの歴史への受肉は、罪によって破壊された世界の秩序の回復と見るよりも、むしろ創造の計画の頂点であり、愛のうちに被造物に神ご自身を譲与するためであった」と言っている。キリストが人間になられたのは、「人間の罪をあがなうため」だけではなく、宇宙創造を計画された時点で、既にその歴史の中に入ることを予定されていたのだ。

 

宇宙進化論を通して聖書を読む