は じ め に  

宇 宙 進 化 と 聖 書

 

 第Uバチカン公会議より10年前の古い過去になるが、私は福山カトリック教会で、ベルギー人司祭から「公教要理」というキリスト教の教義について学んでいた。当時、中学生であった私は、生物の授業で教えられる生物の進化と、旧約聖書の天地創造の話の間に矛盾を感じ、少なからず反発を抱いていた。

 とくに、類人猿などの化石が、方々の地域から発掘されているのにもかかわらず、なぜ人類はアダムとエヴァのただ二人から始まったのかということや、人間は肉体と霊魂が合体したものであって、肉体は猿あるいは他の動物から生じたとしても、霊魂は胎内にいる時に、神が一人一人に介入して注賦される、ということが不思議でならず、どのようにして、いつ、霊魂を与えられるのであろうと思っていた。また、人間は、人祖であるアダムとエヴァの罪を受け継いで、生まれながらにして原罪に汚されているというのは本当かとか、人祖は、神のようになりたいという傲慢によって、禁じられた楽園の木の実を食べ、神の掟に背いて罪を犯したというが、それならなぜ愛である神は、人間を試みるような掟を課したのだろうかとか、また、罪を犯した人間を救うために来られたキリストに、父なる神は、正義とはいえ、なぜあのようにむごい償いを要求されたのだろうか等々と、多くの疑問が多情多感な年頃の小さな頭を駆け巡っていた。

 その後、ここ半世紀の間に宇宙開発の目覚ましい働きによって、宇宙の起源と進化に関する宇宙観が驚くべき飛躍を見せて来たし、またフランスのカトリック司祭であり、神学者、哲学者、地質学・古生物学者であるティヤール・ド・シャルダンによって、生物の進化論は、全宇宙の進化と言う大きな角度から捉らえれるようになってきた。一方神学においても、1962〜65年に行われた第二バチカン公会議によってその考え方に大きな広がりを見せ、自然科学の進歩と人間の知的レベルの向上に即して、神学に新しい解釈がなされるようになってきた。とくに、今世紀の偉大なカトリック神学者、カール・ラーナーは、新しい神学体系を展開し、彼とシャルダンによって、科学と神学との隔たりに新しい橋が架けられてきたと言ってもよい。

 現在、立場が変わって「公教要理」を教えることになった私は、この新しい考えを基に、宇宙進化と聖書の語る天地創造、人間、罪、人類の未来など、上記の疑問を解明しながら再考していかざるを得なくなった。もとより科学方面にも神学方面にも疎い私であるが、一信仰者として、現代の科学、神学の光の下に理解し得たことを記していきたい。間違った点を大いに指摘していただき、より深い理解へと進むきっかけとなることを望んでいる。

               宇 宙 観 の 変 遷   

  旧約の時代には、宇宙は、平板な陸の上にお椀のような形で天球がかぶさり、その天球に多くの星が張り付いていたと考えられていた。そして、その天球の軌道上を太陽と月と五つの惑星が巡り、有限な空間の中を、地球(大地)を中心にすべてのものが動いていると考えられていた。 この地球を中心に太陽が回るという天動説は、延々16世紀半ばまで続き、ポーランドの学者であるニコラウス・コペルニクスが現れて初めて、太陽を中心に地球が回る地動説が語られるようになった。しかしこの時はまだ、宇宙は有限な閉じられたものと考えられていたが、17世紀に入って、ガリレオ・ガリレイによって、今日のような無限に広がる空間として捉えられるようになってきた。

 さらに、今世紀も半ば、1948年に、レニングラード大学からアメリカに亡命したジョウジ・ガモフによって、現在主要な説となっている宇宙創造論、ビッグ・バン説が唱えられるようになった。それは、宇宙は約150億年前に、ごく小さな塊、しかも、とてつもなく大きなエネルギーの塊で始まり、それが宇宙の誕生のごく初期に大爆発を起こして、ものすごい速度で広がりながら、今もなお膨脹を続けているという仮説である。そのビッグ・バンによって空間と時間が生じ、素粒子は原子、分子となって物質を形成し、今からおよそ50億年前に我々の地球ができたといわれている。