30歳になった頃、彼は心の中に動かしがたい神の招きを感じられた。我々が心の中に神のお召しを感じるようにである。イエスはマリアに別れを告げ、父のみ旨を行なうべく家を出られたのであるが、さて、具体的になすべきか判然としない。

 ひとまず、ヨルダン川で洗礼を授けている神の人、洗礼者ヨハネのもとに行かれ、そこで、霊の強い誘いを感じて
ヨハネから洗礼を受けられる。

 ヨルダン川の水に全身を静め、「罪とこの世の生命に死んで、新しく生きるという洗礼の儀式」を通して、イエス
はご自分の果たすべき使命を心に強烈に感じられたのであろう。「自分の使命は死ぬこと、すなわち生命を捧げること
によって世に命を与えることだ」と。この悟りを肯定するかのように、天が開け、父なる神からの言葉が下る。「これ
はわたしの愛する子。私の心に適うもの」(3 :17)。天が開け、父からの言葉が下ることは、聖書では3回登場する。タ
ボル山上でご変容のあったときと、死に向って捕らえられる数日前のことである。イエスはそのたびに段階的に、自分
がどんな状態で死にわたされるかを悟られ、最後にはそれをご自分で受け入れられるところまで到達される。そのとき
どきに、父なる神は天からの言葉をもってイエスの決心を確証なさるのである。

 さて、イエスは洗礼の後、抗しがたい神の導きに従って荒れ野に退き、そこで40日40夜断食しながら、使命を果たすにあたっての宣教の計画を練られた。(マタイ4 :1-11)。そのときのイエスはまだ、人類の救いのために自分の生命を捧げるという、美しくも漠然とした希望に満ちた心情しかない。イエスは荒れ野で、人間に対する神の愛の心をどのように伝え,救いに備えた生活を送らせるためにはどのようにしたらよいかと考えられる。人々は自分の言葉を聴いて信じるであろうか。ナザレという田舎で育ち、大工の子として無名な自分がどのように人々から受け入れられ、信頼されていくのであろうか。世には祭司という指導者がおり、律法学者がその教えを説いている。村々には会堂があり、その会堂につながっていることはユダヤの民にとってはすでに救いを意味することである。そうした中で何ら肩書きを持たず、又、ユダヤのラビから律法を学んだわけでもなく、弟子も持たず、たった一人の若い自分がどのように人々の心を得ることができるのであろうか。

 そのとき悪魔は誘惑する。「この石をパンに変えよ」。パンすなわち富を持って人々の心をつかむことができるのではないかと。事実、寛大なお金持ちは古今東西を問わず尊敬され、人々は慕い寄ってくる。イエスの時代にも、5000人の人々にパンを増やされた時、群集はイエスを王にしようとして探し求めた。イエスはその誘惑に「否」と答えられる。自分は富を持って人の心を引き寄せることはしない。イエスは枕するところもないほど質素に生活され、たびたび疲れ飢えておられた。

 悪魔は又誘惑する。「神の子であったらこの塔から飛び降りよ。天使たちが支えるであろう」。当時はメシアの出現を今か今かと待ち望んでいた時代であったから、天から下ってくる人を見たら、すぐさまあがめるであろう。イエスは「否」と答え、摩訶不思議な行為によって人々を魅惑することを自分に戒められる。

 悪魔は三度目の誘惑に訪れる。「おまえにこの世のすべてを与えよう。ただ我を礼拝せよ」と。この世の権力者になればすべての人が彼の前に額ずき、命じたことを直ちに実行するであろう。救いの道も広く行き渡りわけなく成就されるに違いない。このときもイエスは「否」と答えられる。権力によって強制されてではなく,愛を持って自由に神の方へ歩んでほしい。

 イエスの取られた宣教の手段は、この三つの「否」で特徴付けられた。それはつつましく生活し、神らしいことを行わず、愛を持って一人一人の心に呼びかけながら人々の心を父なる神の方へ向わせることであった。

その2  宣教準備 (洗礼と荒れ野での誘惑)