その1 イエスの幼年時代

イエスはどのようにしてご自分の使命を悟っていかれたか

 イエスは生涯にわたって、自分の使命をどのように自覚していかれたのであろうか。

 私が要理を習った半世紀前には、イエスは神としてすべてを知っておられたが、それを隠してあるいは用いずに、人間と同じように振舞われたであろうというものであった。しかし、パウロが言うように、イエスは罪を除いては完全な人間となられたのであり、また年とともに身も心も成長して行かれたという考え方が現在の神学では主流になっている。

 では、いつどのようにして、あの十字架の死を通って人のために生命を捧げるという使命を自覚していかれたのであろうか。頭に飛来することを順を追って書いてみたいと思う。

 第二のペルソナは肉をとってマリアの胎に宿られた時から、人としての歩みを始められた。馬屋での誕生の時、神殿での奉献の時、エジプトへの避難の時には神としての自覚はいささかもない。幼年時代は会堂で、また両親の元でひたすら神について学び、知識的にも、精神的にも、人間として成長された。(ルカ2 :52)しかし、イエスの心の奥底には常に、自分は生涯神の御意志のままに生きたいという強い望みは持っておられたことは間違いない。これは我々平凡な人間ですら自分の向上心と共に持ちうる望みである。そして、罪びとの我々ですら心が敏感になるにつれ、神を体験し、神と自分がどんな関係にあるか、また、神がいかに個別的に自分を愛してくださっているかを実感することを思えば、罪のないイエスにおいては、幼い時から言い聞かされてきた神と自分との関係、自分は神の子であるということを直観されたに違いない。

 それを表すものとして、12歳になり、通過儀礼を終えて大人としての自覚を持たれたとき、自分は今から自立した人間として父なる神のみ旨を果たすべきだと、少年らしいはやる心で神殿に残られるという出来事があった。そのときは、もはやイエスは神が父であること、そのみ旨を果たすべく自分が来たことを深く認識しておられたに違いない。少年らしい熱情に駆られ、今こそと思われていたことであろう。

 しかし、三日の間彼を探し尋ねてきたマリアとヨゼフの言葉によって、今はまだそのときではないことを悟られ、30歳になるまで、父なる神が「そのとき」を確認させてくださる日を待ちながら、平凡な人間の営みを続けられた。彼は、両親のもとで仕事を覚え、生計をたて、人々と共に生き、協力し合う生活が父なる神のみ旨と感じて、淡々と生きられた。