X.おわりに

禅僧であり日本庭園デザイナーでもある枡野俊明さんの記事が目に飛び込んできた。「日本庭園の特徴は、不完全さや余白の中に作り手の精神性が入り込むこと」だと語っておられる。確かに日本庭園は、西洋の庭園とはずいぶん違う。自然を巧く取り入れ、日差しや風向きなども考えながら、全体の調和を大切にして設計してある。何度かこの文章を読んでいるうちに、このように読んでいた。日本庭園は、私自身である。その不完全さや余白の中に、私を造られた造り主の思いや願いが入り込んでいるとしたら、「私」を生きるなかで、その方の心が分かるように、自分の庭園をよく眺め、味わわなくてはならないと。それには、慌ただしいなかにあっても、「自分の庭園」を知るために、立ち止まる必要がある。「だるまさんがころんだ」の遊びの中で大切なことは、鬼がふりむく前に、静止できるかどうかである。この静止することが、前に進むためにどんなに重要であるかは、この遊びをする子どもたちが一番よく知っていることである。

 

参考文献

 

朝日新聞「be on Saturday」,(2007.2.10blb2

『聖書』(講談社1980)。

『聖書 新共同訳』(日本聖書協会1987)。

福山暁の星女子中学・高等学校「SQ一私になる旅」、『研究紀要』第17号(20032337

福山暁の星女子中学・高等学校「SQへの展開」、『研究紀要』第18号(2004219

福山暁の星女子中学・高等学校「神にふりかえる」、『研究紀要』第19号(2005212

三原市神明市案内。

45年生宗教個人研究作品(20062007)。

「目に見えない存在を畏れる気持ち」と「神に信頼」する心があれば、私たちは動揺することがない。つまり、だるまさんはころばないのである。

 生徒たちが旧約聖書を読み、完成した作品を見ながら、一人ひとりが捜し求めていた答えを何らかの方法で手に入れているのに驚いた。また、自分の生き方にも影響を及ぼしているのを知って、だるまさんはころばないと思った。神が一人ひとりの内に「清い心を創造し、新しく確かな霊」を授けてくださるように祈りたい。そうすれば、だるまに目が入り、神に造られた私たちの歩く道を探し当てることができるだろう。

  わたしの魂よ。沈黙して、ただ神に向かえ。

  神にのみ、わたしは希望をおいている。

  神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。

  わたしは動揺しない。

  わたしの救いと栄えは神にかかっている。

  力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。

  民よ、どのような時にも神を信頼し

  御前に心を注ぎ出せ。

  神はわたしたちの避けどころ。(詩編6269

「物質に満たされた現代に生きる私たち」は、身の回りの物を持ちすぎて、「だるま」になってしまったのだ。一人ひとりの中に「目に見えない存在を畏れる気持ち」を持たないと、自分の中に拠り所となる重心を見い出せず、「だるまさんがころんだ」状態になって起き上がれなくなってしまう。

 「だるまさんがころんだ」状態から脱出する方法はあるのだろうか。イスラエルの民がエジプトから脱出したように、現代の私たちも真の自由に向かって脱出しなければならない。子どもたちに未来を約束する使命があるからだ。この遊びをよく眺めていくと、捕虜たちを救う者は、静かに鬼に近づいていく。鬼の目にその人が動いていないと思わせながら、少しずつ鬼と仲間の境に向かっていく。その時の思いは、詩編作者の思いと重なっていく。

「アブラハムの信仰の理由は神の存在です」と述べ、「神があまりにも絶対的な存在」であることが理由になっている。さらに続くのは次のことば、「人智を越えた存在に理由はありません」と説明する。現代社会の中で、価値観が揺らぎ、行く方向が定まらず動けなくなった民の中に私たちがいないだろうか。遠い昔、どんな状況のなかでも神を信頼したアブラハム。その信仰を神は顧みられ、行くべき道を準備された。

 アブラハムの信仰の理由は、神の存在です。神があまりにも絶対的な存在だからです。人智を越えた存在に理由はありません。物質に満たされた現代に生きる私たちは目に見えない存在を畏れる気持ちを忘れています。はるか遠い昔に生きたアブラハムが、その生涯を通して、現代の私たちに残してくれたメッセージは、これではないでしょうか。          (4年 藤田真未)

だるまさんがころんだ」の遊びは、今も子どもたちを通して次の世代に伝えられている。大人たちが、「テロだ、戦争だ、地球温暖化だ」と言って苦しみ悩んでいる時に、子どもたちは遊びの中で大事なメッセージを伝達している。「だるまさんがころんだ」(転ばないものが転んだを繰り返す)これは「ころばないと信じていたものがころんでいくよ」と聞こえないろうか。アブラハムの個人研究の作品のなかに、この「だるまさん」が何を象徴しているのかを考えるヒントを見つけたので紹介する。

 

  主はわたしの岩、砦、逃れ場

  わたしの神、大岩、避けどころ

  わたしの盾、救いの角、砦の塔。

  ほむべき方、主をわたしは呼び求め

  敵から救われる。(詩編1834

 

 この鬼がエジプトのファラオだとすると、自ら「だるまさんがころんだ」と言わなければならない場面はどこだったのだろうか。モーセを通して語られるイスラエルの神の言葉に耳をかさず、心をかたくなにし続けたファラオが、とうとうイスラエルの神の力と偉大さに、自分が飲み込まれた時ではなかったか。エジプトの兵士は海のなかでおぼれ死んだが、その前にファラオが精神的におぼれ死んだのである。ファラオにとって「だるま」は、自分自身であった。

 イスラエルの民にとっての「だるま」は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神でありその神が奴隷の民を解放すると信じていた。イスラエルの民はファラオにつながれていたが、その先に全能の神の姿を見ていた。彼らは、神が苦しむ人や霊の砕かれた人を顧みられることを信じていたからである。この遊びをするときに必要なのは、グラグラしないもの、たとえば、大きな木、ブロック塀、壁などで、鬼が「だるまさんがころんだ」という間、寄り掛かっていられるものである。私たちが、この寄り掛かるものを何にするかで、だるまさんがころぶか、ころばないかが決まるのではないだろうか。イスラエルの民は、神をこのように表現している。

 

 「だるまさんがころんだ」という遊びは、鬼ごっこの一種だが、他の鬼ごっこと違うのは、鬼が自分の場から離れないことである。鬼にはこの遊びに参加する人をことごとく自分の捕虜にする目的があり、鬼以外の人は、鬼に捕まらないように鬼に近づいていく。もし捕まっても捕まっていない人の手で解放してもらえることを知っている。

高崎の少林達磨寺

W.だるまさんはころばない

 「だるま」と聞くと、すぐ、赤いだるまや「七転八起」という言葉を思い出す人が多いだろう。日本の中で親しまれているこのだるまは、達磨大師が座禅をした姿に似せて作られた置物である。その置物の底を重くして倒しても起き上がるものがあり,そこから「七転八起」とうことばが生まれ、開運の縁起物となった。
 さらに、願いが叶ったときに、目を書き入れる習慣もある。江戸時代に中国から伝わったとされるから、400年程の長い歴史がある。三原にある神明市は、山陽路に春を告げる祭りとして430年の伝統を持ち、全国の露天商が軒を連ねる市場祭(植木市やだるま市)が開かれる。全国のだるまを集めた極楽寺や「達磨記念堂」と、このだるまを大切にし、伝統を大切に伝えていく試みがされている。高崎の少林達磨寺は有名で、そこにも多くのだるまが収められ、だるま市が開催されている。
その3

       

  

だるまさんがころんだ
 

青 木 薫 代

高校生と読む福音書