その2
生徒たちの気付きと発見 つづき

 生徒たちは、個人研究を通して神の思いや考えを心の中で聴いていることがよくわかった。神は、一人ひとりに合ったやり方で表現する方法を授けておられる。その独自性のなかに、神から与えられたいのちに生かされている生徒たちを見ることができる。                          
                                  その3へつづく

 神は多くの人を救うためにヨセフを使われた。ヨセフはついに、揺るがない信仰に立つことができ、神は祈り求める人を見捨てず、悪を善に変えてくださると悟ったのである。 
 神を信じる人は、「ひどい仕打ち」が「神の計画」に変わり、「悪」が「善」とされるのです。私もヨセフの心の大きさに触れ、私自身の心も大きくなれた気がします。 
 人の気持ちを考えられる、そんな心の大きな持ち主にもっともっとなれたらと思います。                         (5年 安原 舞)

 

「すべて神が決めたこと」に気づくと、神がその出来事を計画され、成り行きを知り、見守っておられることがわかる。兄たちが犯したことは、許しがたいものであるが、それが、神の計画のなかにあることを知ったヨセフは、辛く苦しい体験を神がご存じで受け止めておられることが分かった時、許す心が与えられたのである。

 ヨセフが「エジプトヘ遣わしたのは、見たちではなく神である」と言っていることから、彼がこんな波瀾な人生を歩んだのは、すべて神が決めたことだと気づき、それに気づいたから、兄たちを赦せたのだと思います。    (4年 柳生映子)

人を試される神は、その人を教育される神である。「何か辛いことがあるというのは、この先、何か自分にとって良いことが起こる」という気づきは、人を必要以上に悲嘆にくれさせることなく、神に信頼して、直面していることにまっすぐ立ち向わせる勇気と力を与えてくれる。「神が見ている」ことが、親が子を見ている姿と重なる。この視線を感じながら、神の子として生きていけそうに思う。

 ヨセフが味わった試練のなかで辛かったのは、かつて自分を奴隷としてエジプトに売った兄たちを許すことであった。生徒たちは、ヨセフが兄たちを許したと知ると、自分に当てはめ、「私には絶対にできない」と言い始める。エジプトの宰相の地位を使って、兄たちに復讐することは可能なのに、それをしないヨセフを不思議に思うそうだ。

 「ヨセフは神に忠実で信仰深い人だから」と、自分と関係ない人にしてしまうと、それ以上考えなくても済むが、自分にも許すことができないだろうか考えると、話は変わってくる。そして、この問いが心の中で繰り返される。なぜ、寛大に許すことができたのか。許す心はどこからくるのだろうかと。その答えがここにある。

 

 ヨセフがどん底に落とされたのは、神様が試したからだと思う。もし、途中であきらめるようなヨセフなら、エジプトの長に立っても、うまくいかないだろうと考えた。神がヨセフを試し、彼の忍耐を見て、ヨセフをエジプトの長にしたのではないか。つまり、何か辛いことがあるというのは、この先、何か自分にとって良いことが起こるので、その良いことがその人に相応しいか、そうではないかを神が見ているということだと思います。  (4年 丸谷有香)

あと一日しか生きられない」という状況を想像の目で見、自分だったら何をするかを考えてみたことが、ヨセフを理解する上で、大きな光となっている。これを気づかせる知恵はどこから来たのだろうか。この地球があと少ししか生きられないというのに、「けんかなどしている暇はない」のだ。そのことに人はいつ気がつくのだろうか。だるまさんは、もうすぐころんでしまいそうである。

 自由になる招きを受けても、毎日の生活の中でさまざまな事が起こり、神の愛を感じられなくなるときがくる。信仰の試練である。エジプトのヨセフは、長い間その試練を受け苦しんだ一人である。そのことについて、次のようにまとめた文章がある。

 宗教の時間に、「24時間で死ぬと分かったら何をするか」ということを考えました。もしその時、関係がうまくいっていない家族や友だちがいればどうするかと考えてみた時、私は絶対にその人々と仲直りするだろうと思いました。あと一日しか生きられない時に、けんかなどしている暇はないと思ったからです。
 
私は、この「あと一日しか生きられない」というのが、ヨセフの話と共通していると考えました。兄弟たちは、ヨセフが助けなかったら食べる物がなく、もうすぐ死んでしまうかもしれないのです。だから、血がつながっている者として、ヨセフは兄弟たちを見捨てることは出来なかったのだと思います。                      (4年 滝川京子)

 

 このことに気づいたのは、神の心にある思いを知ったからだと思う。私たち一人ひとりの生き方が問われ、何を求めているかがはっきり分からなければ、神との契約を人間の側からはできないのではないだろうか。 11月はカトリック教会では「死者の月」とされ、亡くなった方々のことを思い出し、祈る月である.今年は、「死ぬことと生きること」を深めるために、エクササイズを授業の中でしてこのエクササイズは、生徒の個人研究の中で次のように展開していた。

神様は、もう洪水を起こさないと契約をしてくださいました。そんな神様に私たちは、永遠の平和を契約しませんか。            (5年 村上陽香)

 神が先に私たちと契約をしてくださったことを知った時、自分たちの方からも神への応答がひつようであるときづいたひとのことばを、ノアの個人研究の中に見つけた。 

       

  

だるまさんがころんだ
 

青 木 薫 代

高校生と読む福音書